昭和52年09月11日 朝の御理解
御神訓 一、「祈りてみかげのあるもなきも わが心なり。」
御祈念をさしてもらう。様々なその御祈念、いわゆる祈りの内容は銘々様々でございましょう。どうでもおかげを頂きたいと。そのおかげを頂きたい事を繰り返し繰り返しお願いをする。そういう例えば、祈りが神様にお互いどの程度通うておるか。まあいうならば天地にどれだけ通うておるかというね。これをねおかげ霊験と書いてある、あるもなきもわが心。これは和らぎ賀ぶ心ではない。自分の心我の心と書いてありますね。そこでやはり祈ってみかげのない時は、まずは自分自身の心を改めてみることです。
そして成程こういう心の状態では、神様は聞いて下さるまいと言う事を、先ずは分からなければでけません。昨日の御理解にありましたように、ね、自分の心がいうなら和賀心、和らぎ賀ぶ心。それこそお月様のいわゆる満月のお月様のように自分の心が光り輝くようになる。それこそ昼を欺くような光も向ける事が出来る。もちろん人間の光があるはずはないのですけれども。
いわゆる太陽の光を受けて、それが満月であれば満月な光。半月さんであれば半月の光三日月さんであれば三日月の光がそれぞれの上に頂けれるのである。だからまずはそういう心の状態を、いうならば見てみる所がお互いのその心の中にです、もう本当に不安で不安でたまらない。又は心がもうどうしても落ち着けない。心配で堪らない。そういう時ですかね、お互いが神様に祈る時には。
だからそのほんとに和らぎ賀ぶ心、満月の様な心にならなければおかげは頂けんと言う事ではないわけです。ね。そこでまあ私どもは、まあお詫びをする。本当に今私の心の状態はこんなにも乱れております。こんなにも汚れております。ね。けれどもです切実に願わねばおられない。ね。それが祈りです。ね。神様はその祈りが段々本当なものになってくると、神様がいちいちそれを聞き届けて下さる。
昨日、一昨日から天候のことが、皆さんお取次ぎ願われます。ね。大型の台風がやって来ておるという。どうも宮崎、北九州あたりを、もうその圏内に入ると、まあラジオテレビでは盛んにそういうふうに言っておりました。ね。皆さんがお取次ぎを願われますから、私はお取次ぎをさせて頂きます。大体いつ頃風が来るようになっておるかと。そしたら丁度ここ当りを通るのが九時頃ですとこう言う。そんなら丁度お月次祭のお説教が始まると言う所の時間ですね。九時ですから。そうですね。
これは合楽教会の月次祭の為のこれはおかげを頂かなければならない。どうでもここを通過しなければいけんのなら上のつうっと通って貰いたい。私ほんとにそうお願いするです。もし避けられるものならば、もう是は何時の場合でもそうですけれども、後でラジオやらテレビで聞きますと、もう普通予想しない様な所からこう曲がってるですね。昨日もやっぱそうでしたですね。朝鮮の方へ逃げたとこう言います。ね。いうならば天地が私どもの心次第になって下さる程しのです、ね、祈りが通じる様になる。ね。
久留米の市長さんがお願いに参りました。どうでもどうでも降ってはならない、皇太子殿下御夫婦が見えるという事でした。それに引き続いて久留米祭りがあるというのです。初めて久留米市長さんが、まあ合楽の金光様に御願いをすると天地のことが自由になるげなと、まあ聞かれたのでしょう。ね。秘書、奥さん四・五人連れで御願いに見えました。それでインターハイの時でしたから、もう皇太子殿下が、その御出ましになる、その時間だけもいいからどうぞお湿りがないようにと言う事。
もう前の日までにずうっお天気が崩れてお湿りが続いておりました。もうその日ももう雨雲がもう低く垂れて耳納山が全然見えない様な事でありました。丁度私は御結界から離れておりましたから応接間で、あのその御届けをさして頂きました。それで私は市長さんに申しました。ね。「久留米としても大事な事だし、同時に引き続いて久留米祭りという事にもなるのですから、その皇太子殿下が御出ましになる時間だけなどと言う様なけちな御願いをなさらずに、どうぞ久留米祭りが済むまで。
これは市長としてあなたが願われたらいいですよ」と私が。「そんなお願いが出来ますか」というて言われました。ね。だから真心、ね。自分の為じゃない市民の為。同時にまあ皇太子殿下御夫妻に対する、もう事の為にもこれは祈らなきゃならない、願わなければならない。そんならそんなふうにお願いいたしますと言う事で一週間日を切って願わして貰いました。もう本当に私がお取次ぎさせて頂いて帰られる頃には、耳納山のあの雨雲がずうっと上に上がってしまいました。
市長さんがそれに気付かれたらしいんです。「ちょっとお願いしたら見てんで見てんなさい。もう未納山の雲が上に上がってしもうたよ」ち言いながら帰られました。あくる日から晴天に恵まれて、そして一週間そんな事ですから、もう久留米市内の四方は全部夕立で雨が降りました。ほんのあの辺のとこだけがもう全然降らずにおかげを頂くと言う様なね、これなんかは私は、私の祈りが天地に通じたんだと思うです。ね。
この頃の合楽祭りなんかん時もやっぱそうでした。合楽祭りの御届けがあって、御祈念があって表に出た時まではまだ降ってました。だから私が一歩外へ出るとと降り止むとが一緒でした。ね。これは神様が私に祈りを聞いて下さる。ね。須賀博士という大変有名な、非常に祈りの強い方がおられます。ね。大きな工場を経営しておられる。そのもうそれこそその周辺に沢山な、いわゆる空襲ですね戦時中ですから。
もうそれこそあの工場の方にどんどん雨あられのように、その、弾、弾が落ちてきたというんです。機銃掃射ですかねずうっと。それに一番屋上に登って御祈念をなさったです。ね。ですからマイクを持って工場に全部働いておる人達にね、「幾ら上空に敵機が来てもですね、絶対そのああた方が怪我をする様な事はありません。私がここの屋上で祈っておる願っておる以上はね。だから仕事は続けて下さい」と言うてマイクでおらび続けながら御祈念をしたといわれます。
おかげを頂いてその広い工場に弾は落ちましたけれども、その被害は全然なかった。けれども「これは危ない」と言うて逃げた人がひとりあったんですね。工場で仕事やめて。その人はもう門の外へ出ると同時にやられたんですよ。という祈りというものはそんなにも、その矢張り強い祈りというものはあるわけですよね。ですから結局いわゆる御祈念力という事もやはり必要だと言う事が分かります。
しかもその御祈念をするその内容がです、ね、ただ自分の我がままの為に、自分勝手のことの為にね、自分の都合の事だけの為に、だったら矢張り神様が聞いて下さるはずはないです。そこにはちゃんと、ね、筋道が立っておらなければならない。ね。どうぞお金が足りません。どうぞ金のお繰り合わせをお願い致します。どうぞ医者が見放しました。病人ですけどもお神様におすがりする他、手はございません。
どうぞまあ全快のおかげを頂きます様に、と言うて御願いを致しましても矢張りそこには只一生懸命に一心不乱に御願いをした、祈念をしたと言う訳にはいけない。御取次ぎをさして頂くと言う事はそういう意味で、このまあ信者の無茶苦茶な願いであってもそれを訂正して。いうならね役所に書類を出します。その書類の書き方が違っておったり、判の押し方が違っておったりする所は、取次者がそこを直してどうぞあの氏子の御願いを聞き届けて頂くように、まあいうならする場合もありますけれども。
これは日々のお互いの生活の中にです、願わなければならない事にならなきゃならない事が沢山ありますけれども、その祈りというものを先ずは検討する事。どうぞ健康にならせて下さい。健康にならせて下さい。丁度ここから一里ばっかり離れた所の部外の方から参ってまいりましたお母さんが。ぞくりゅう結核で助からないと言われる子供の事を御願いに参りました。もうそれこそまあ一心不乱に毎日参って、当時椛目の時代でした。それこそおかげで助かりました。
もうその人は馬鹿の一つ覚えのように、一番初めに椛目のお広前にお引き寄せを頂いた時に、「〇〇さんこの神様はね、もう有り難いで開けた道だから有り難いには苦労はさせんと仰るほどしだから、例えていうならばマッチの擦り殻ひとつにでも御礼を言わなければなりませんよ」とね。「マッチだけ有り難うございますと言うけれども、マッチのその擦ったその殻にでも御礼を言う気持ちにならないけませんよ」。
もう徹底してこの事を、もう何十年前になりますけれども、それをやっぱ実行して、まあ色々おかげを頂いておりますけれども。その息子が全快のおかげを頂いて、それから間もなくでした、その村内のまあいうなら不良グループです。でその四・五人で牛泥棒をしたと。新聞にも載ってもうそれこそ、まあ村としては大変な事でした。そん時にそのお母さんが御願いに来てから申します事でした。ね。親先生あん時に助けてもらわんがよかったって言いましたよ。
こんな恥知らずな事をしでかしてね、もうほんとに相済まん事になりましたと。そこは大体大変な昔庄屋さんの、今はそうじゃない大変まあ色々、まあ落ちぶれておられましたけれども。大変まあ名門です。先祖の方はあのここの神社に祀られる位な方だ。その子孫である所の、その私の子供がこう言う事をしでかして、もうほんとに親先生あん時にご無理を言わずに、もうあのまま死んでくれたらよかったでよございましたと言うて泣きました。ね。だからそう言う事になったんじゃいかんでしょう。
助けて頂いた為にかえって困った事になる。ね。そこでまたあらためて御願いをさして頂きまして、それはだんだん穏便に済んで、それから本人も改まって大変真面目に働くようになって現在今おかげ頂いとります。今北九州の方に行っております。まあひとつの例ですけれどもです。健康にならせて下さい、もうそれこそ体の弱い時には物も言い切らんごとしとったとが、段々元気が出てきてからね、もういらんこつばかり言うたり、まあいうならば暴力を振るうごつなったりするならね。
だからやっぱり願う前にです、健康を頂かせて下さいと言うならば、その健康のおかげを頂いたあかつきには、それこそ神様に喜んで頂くような真面目な氏子にならせて頂きますという私はその願いが、願いの中にそういう一札が入っておかにゃいかんと思うです。お金でもそうです。どうでもここに是だけのお金が要ります。いやまだ是これの事だけじゃありません、お金に不自由のないようなお繰り合わせも頂きたい。
というだけでもしならおかげ、けれどもね初めの方達の場合は、そんな事言うだって分からんから、もうさあ手形がもう何時と言うて御願いに来る人達があるんですから。私は詳しゅういろいろ、その御理解を言うて聞かしてもとても耳に入りません。だからまあとにかく御願いしましょうと。はあおかげを頂いてもうギリギリに、もうそれこそ銀行に走りこんでようやく間に合いましたと行ったようなのは日々あるですよやっぱり。そういう御願いがね。ね。
ですからおかげを受けた後に今度は話をして、いうならば願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせと仰るから、おかげをまず先に渡しといて、金光様のご信心とはこういう信心だよ、こういう生き方にならなければ、是からのおかげが受けられないよと、まあ繰り返し繰り返し説かして頂いて、初めの間はそれがなかなか実行できん。でもおかげは受けますね矢張り。けれどもそれではいけません。ね。
金持ちになった為にそれこそ贅沢をする。ね。いうならば沢山のお金があるためにです、人の迷惑でも省みらずに、そんならお手上げさんを作ったりね、する事の為に神様はおかげは下さらんです、実際は下さるけれどもね。本当のおかげに成って来ないです。願う氏子におかげを授けと仰るから下さいますけれどもです、ね。いわゆる今日は私、本当のおかげと言う事をです。例えばその時その時に自分の祈りというものがです、どの位に神様に通うか天地に通うか、その祈りの稽古。
今大祓信行、夕べも遅う出てまいりましたが、ここ一杯の人達が一生懸命大祓信行をやってました。これなんか素晴らしいですね。祈りの力がそれは只神様に一生懸命大祓。大祓いというのは、神様がいうならば栄養失調になってござるような感じ。それになら御神飯を差し上げるようなものだとここでは言われております。合楽理念ではそう説きます。だからもう無条件に一生懸命に神様に大祓信行を、例えば五巻よりも十巻と奉らしてもらう。しかも欠かす事のない。
一日だって神様に、今日はもう食べんどって下さいというわけにはいかん。それを自分の気分がよか時にはする、気分の悪か時にはもう御無礼します、なら家でしますと言う様なこっちゃでけん。これだけはもう行ですから。ね。そしてなら大祓信行をさして頂いておるうちに気付く事はです、自分自身の心の中の神様が生き生きとして力を得てござる事にびっくりするです。ね。和賀心になる所の神様が助かってござるです。和賀心の中の神様が力を得てござる。ね。
そういう力を以って、今度はなら私の願い、私の祈りという事に移らしてもらう時にその祈りが的確に頂けるように。だからもう限りがないです金光様のご信心は。私今日御神前に出らしてもらいまして頂いたのが、この黒に緑てですねあの皆さんも思わっしゃるけれども。黒に緑の色というのは非常によく合います、調和。ね。真っ黒所へあの緑色で字が書いてあったりするととても調和がいいでしょうが。ね。色彩感覚がある人ならすぐ分かるでしょう。その黒い板に修行という字が買いてある。
それがねその黒の所が薄い墨で染めたような感じ。いわゆる黒々としてないんです。それからその緑の字もまた薄い緑色でその書いてある。そういうお知らせを頂いてから私は思いました。はあこれはいわば苦労が足りんのだなと。苦労と言う事は金光教では、私は苦労とは言いません。それを修行と申します。ね。修行が足りんのだなと。修行が薄いもちっと手厚うね。
そこでここではなら水を被ったり火の行水の行と言う事はもうご法度になってますし、ここでは合楽に御縁を頂く者はそういう修行はもうしてはならない事になってます。表行よりは心行と仰るから本気で心の行をさして貰うのです。その心の行がですね足りない。又は家業の行が足りない。金光教の行はだからいうなら家業の行です。又は心行ですその家業の行とてもです、心行が入らなければ家業の行になりません。只なら金光教の信心は一生懸命もう働きさえすりゃそれが行だと言う事じゃありません。
中に心行が入ってね、神様いわばさせて頂きますという心。まあそれを毎日毎日繰り返して行く内にです、ね、今日も本当に充分にお使い回し頂いて有り難うございましたと。今日一日家業の行に勢を出さして頂いた事にです、心から御礼が言えれる様な一日であったら、今日は立派に家業の行が出来た事になる。ね。朝の清々しさ昼の忙しさ夜の有難さというその夜の有難さというものが答えに出て来なかったら家業の行にはならないです。はあちょいと今日もきつかったきつかったと言う様な事では。
それはきつかっただけで何もなってない。家業の行にはなっとらん。只自分がお金を儲かる為に、自分が生活の為に一生懸命働いたという事になるのです。だからいうなら行でなからなければ神様は受けて下さらん。それを行で頂く時にです、ね、信心に修行が付きもの。修行に必ずおかげが付くのだもうこれは付きものだ。御徳が必ず付くのだ。ね。そういう修行でなからなければならない。
そこで苦労を修行に切り替えると言う事なんです。ですからその修行が曖昧な事であったり、疎かな事であってはなりません。矢張り実意を込めての家業でなからなければならんと言う事になります。私は昨日お月次祭の時皆さんに申しましたように、この記念祭が終わったら、丁度裏に今度三反歩あまりの敷地が、境内がここが一町になったわけです。ね。だから三千坪と言う事です。その三千坪の境内の中に今度はまあ、まあだ名称は分かりませんけれども、まあ三階建てのビルが建つ事になっております。
そして(れいげん)が整えられる事になっております。それが一億円計上されております。ね。それでまあ色々言ってましたけれども。私はどうでもここをね、ひとつのもう本当の信心の道場。いうならば信者の師弟の方達、また師弟じゃない方達でもです、本気で信心を頂きたい、人間のほんとの幸せに逢いたいという人達にです、ね、いうなら合楽理念なら合楽理念を、いわばその基礎だけでも、いわばマスターしてもろうて、この生き方でいけばもう絶対の道が開けるんだ。
絶対人間が幸せになれれるんだ。御徳が受けられれるんだという確信の持てれるひとつの土台作りをする道場にしたいと言った様な事を昨日皆さんに聞いて頂きましたがね。何故私がそう言う様な、いうならばまあいうならば夢のようなね、まあ現在の合楽の、いうなら力からいうたらです、ね、願いが大きすぎるようにありますけれども、これはもう確かに世界に羽ばたけなければならない合楽を最近感じるからです。
私がここへこんな事を今度合楽理念の小冊子が、また一遍作りましたけれども足りませんでしたから今度沢山出来ます。それは色々追加のあれがありますから。ここ二・三日そのまあ文章にして下手な文章をつづって、そのやっておりますがその中にこういうのがあります。『合楽理念以外の宗教宗派の教えは、合楽理念の枝葉に過ぎない』と皆さん聞きよってから大坪はえらい事ばっかり、大きなこつばっかり言いよると思いよりなさるかもしれません。ね。千何百年何千年続いた大きな大宗教があります。
キリスト教仏教然りです。ね。まあ最近は雨後の筍のように色んな宗教が出来ました。しかもたかが合楽位なこではない。沢山の信者を布教して、矢張り助かっておるから人も集まっておる訳です。ね。けれどもそのどの宗教を見ましてもです、ね、それを本気で極めようとすると、妙な修行をしなければならなかったり、でなかったら迷宮入りをする以外はないという、もう宗教ばっかりである事が分かったからです。
昨日もテレビで知恩院の二十五歳になる若いお坊さんがテレビに出てました。ね。とにかくあの知恩院の山の峰から見ても、まあ一日回ると七時間かかるそうです。それを百日間ですかね、昨日御覧になった方もあるでしょう。そしてそれを終わった後に一週間の断食を終わって、まあ一通りの修行が終わる。それが知恩院始まって千何百年になりますでしょうかね、何百年になりましょうか知りませんけれども。五百六十人しかその修行を成し終えたお坊さんがいないと言う事です。
だからその五百六十一人の中に自分も入りたいという願いの元に。そういう修行を毎日なさっておられる。朝の二時半から提灯を下げて峰から峰をつたわって行く、そのする修行なんです。ね。果たしてそれだけの事をして何になるだろうかと私は。いうならば宗教にひとつの疑惑の念が起こさずにはおられません。宗教だけでも私皆さんにちょっと申しましたように、宗教というのは人間が助かると言う事の為にあるんだと言う事です。だから宗教というのは、天地が示した事を教える。
宇宙のウというのは、天地が示すとね。宇宙ウが示すと書いてあるでしょう。それを伝えるのが宗教なんだと。しかもそれがね人間が助かる事の為に宗教はあるのだと。であるのにも拘らず、ならその信心を極めていくと、もうそれこそねもう自殺するより他にないと言う所に行き詰まると言う事です。いわゆる迷宮入りすると言う事です。そしてそれも膨大な、いうならば教えを色々勉強さして頂いてギリギリの所は、原罪だからしかたがないとか、又は因縁だから是はやもうえないとかと。
助かる元がないです。極めれば迷宮入りです。しかもそう言う事は、例えば人間生身を持っておる人間では、とても出来ない信心なんです。その中途半端で助かっておるということは事実ですよ。いうならば奇跡を現すぐらいな宗教は、今の新興宗教でいうなら沢山ありますよ。ね。助かるというだけなら。ね。だからそういう例えば、難しい事をするのではなくてです、なら合楽理念を例えば一通りマスターするというならば、この位ばっかりの小さいな本を一遍どおり読めば。
合楽理念がどんなものかというのが分かるのです。ね。それがほんならどういう階級の人がです、どういう人が見ても合点がいく。不自然ではない。しかもやろうと思えば誰でもやれれる。そこに合楽理念は助かりの理念といわれる理由があるわけです。そういう例えば、なら真の信心をです教祖が打ち立てられたけれども、その真の信心というのが、ならどうすりゃ真の信心か、そんなら真の信心には必ず真のおかげが伴わなければならないが、ね、真のおかげが伴うような真の信心とは。
どう言う様な事かと言う事がそれが非常に不明瞭であったと言う事なんです。それを、なら合楽ではこれが絶対だと。これが絶対の真の道だ、真の信心だというふうに言うて聞かせて私がそれを行じて、そして私がおかげの実証をここに明らかにしながらです。「そりゃ親先生、ああたんごたる真似は出来ん。ああたんとはそりゃ特別だ」と言うておった人もあったけれども。ね。この南米にここの布教所が出来た。教会が出来た。そしてここと同じような御ヒレイが現れだした。
まあだ三・四ヶ月の間にそういう事実が見えてきた。だから私の言う事に私自身も自信を持ったし、そういうひとつの実証を踏んまえて合楽理念がどのように素晴らしい事かという事を皆さんが分かって下さる。だからいうならどういう宗教も潰す事ではないけれども、合楽理念を芯にして、その枝葉というものがあっていいのだと言う事です。勉強したい人は、いうならば教学をするのっもよかろう。ね。修行したい人があんなら、まあいうなら荒わな行でもしゅうごたるならしてもよかけれども。
そ言う事ではない。もう行は家業の行と心行に極まったんだと合楽理念では説いとります。合楽理念は大天地を通じて万事を包容する内容を持っておると言う事です。ね。今までの宗教の全てがです、いうならば合楽理念に絞られなければならない。そこに言うならば世界中の神様がね、寒天危地と私は頂いておる。「寒」というのは寒い。ね。天がそれこそ寒い思いを「危地」というのは、いうならばこの地球上がもう死相が出ておるといわれるほどしに危機状態に現在あるということです。ね。
それを歓天喜地にしていくのが合楽理念ぞと仰る。歓天喜地というのは歓びの天ね。喜地というのは喜びの地です。歓楽街の歓という字を書いて歓天。だから寒天危地から歓天喜地にそれを言葉を変えると和賀心時代を愈々世界に広めていかなきゃならない。その広めていくのに、そういう不自然とか道理に合わないとかね、又は迷信的であると言った様なものが一掃されてです、どこの誰にでも、ね。教養のある人にでも無い人にでもね、色々主義があります。
どういう例えば主義の人にでも合楽理念ならば、真面目に聞こうとすれば誰でも分かるというのが合楽理念です。ね。そういうふうにです、世界のどこに行っても広げられるところの普遍性にとんでおると言う事なんです。どういう所にでも入っていけれるという。だからどうでも、なら南米で末永先生が言ってありますようにです、ね、海外布教はね、南米、合楽理念を以ってする他にはないと言っております。
それは言葉は通じなくても習慣全てが違うておっても、肌色が違うておっても合楽理念を以ってするならばどういう人種でもです、難儀という様相は同じだと。ね。その難儀を救い助けていく、取り次ぎ助けていくと言う事は合楽理念を以ってする他は無いといわれるほどしの合楽理念をね、皆さんが本気でマスターする。それを日々の生活の上に現していくという生き方をなさる。
今日はまあえらい所に進展してまいりました。祈りてみかげのあるもなきもわが心。そういういうならば、ひょっとすると大言壮語に聞こえるかもしれません。けれども何がなんと言うても天地がバックである事に素晴らしい事はありません。その天地を自由にするほどしの合楽ではおかげを頂いておる。そういう祈りがいつも皆さんのひとりひとりの上にも現れておると言う事実をね、皆さんが分かられたらね。
もう少しは感謝の念も、いうならこりゃ本気で修行しなければならないぞという薄い黒が、ま少しは真っ黒い修行になってくるでしょう。青の色というのは生き生きとした、いわゆるフレッシュなという意味です。生き生きとした心。その青い心の生き生きと、もっと瑞々しい信心修行が出来る事でしょう。そこからですなら合楽打って一丸となって合楽理念の、いうならば実を挙げると言う事はこんなに素晴らしい事だという実証者にひとりひとりがなって頂かなければならない。
それがね世界の難儀な、どんな僻地にでも入っていけれるようなね、いうなら一粒万倍と仰せられるおかげを頂きたいと思います。どんなに例えばそれをなら合楽理念をいよいよ行じさせて頂いて、そら成程分からん所は出来てきますよ、それに取り組んでおると。けれども絶対迷宮入りにはならない、私がここにいる限り。それはこう言う事だよと分かる。ね。そういういうなら信心を愈々身に付けて、しかもそれを頂こうとすりゃ誰でもが頂けれるんだと言うのですから。ね。
いうならば天地日月の心になること肝要、とても難しいごとあるけれども、大天地である所の天地金乃神様。小天地である所の私どもひとりひとりがです、同じものの内容を持っておるんですから、出来ない事はないです。ね。水と油ならば一緒になれません。けれども同じ物を持っておる、いうならば天地の親神様が水ならば私どもも水の内容を持っておるのですから。ね。その気になれば天地と一体になる働きです。天地との交流が分かる。そこにね交流そこから生みなされてくるのがね。
天地金乃神様の神願です。神様の願いがそこにあるのです。ね。そしていわゆる寒天危地を歓天喜地に、神様に喜んで頂く地上に喜びの、いうならば氏子が一杯満ち溢れるようなおかげ。そういう信心を目当てにしてお互い信心を進めていきたい。その為にひとつ祈りの力というものを作らなきゃいけん。そん為ににはどうでも、いうならば大祓信行の徹底をしなければならないと言う事ですね。
どうぞ。